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風邪を引いている。喉が痛い。最近は寝て起きてご飯を食べ、曲を作り、ゲームをし、twitterをするという生活を繰り返している。なぜなら全体的に身体が酷くけだるいためである。私も悲観的な人間であるので、ベクトルは違えど、このような心身の不調の際には明日もきっとまた風邪なのだろうと思いながらよく眠る。精神に不調を来している際にはもう永遠に治らないような気さえする。この前年少時くらいまでを綴ったので、今日はその続きから書こうと思う。年少のとき富山県からある女の子が引っ越しをしてきて、私はその子と中学くらいまでずっと親しく付き合っていくことになる。幼少時には祖母からその子ばかりと遊んでいないで、もっといろんな子と仲良くしたらと言われたことがある。その子は家が一般的にはカルト宗教と呼ばれるところに属していた。その子の両親はそこで知り合って、その子を産んでいた。その子には自由恋愛が認められていなかった。私は恋愛に関して極力その子に考えさせてしまうようなことは言わないでおいた。中学までずっとその子と一緒にいたので宗教というのにあまり否定的な視点を持ち合わせていない。把握している限りではその子の家の事情を知っているのは中学までは私だけで、結婚相手が決まっているというのもその子は私以外の誰にも話すことなく過ごしていた。その子の父親は単身赴任で会ったことがないけれど、その子の母親は気さくでとても良い人であった。その子が楽しそうにしているので、両親のことを好きだと笑いながら話すので、私は宗教というのにあまり否定的な視点を持ち合わせていない。武道をしていて、バドミントンが得意で八重歯が可愛いかった。時折好きな人が重なり、二人で黄色い声をあげ、お互いの恋愛を応援し、ゲームをし、アニメの話をし、日常の話をした。小学校のときは私の方が背が小さかったのに、この前成人式で会ったら私の方が背が高かった。保育園の頃、父親が私を溺れさせたため、私は水泳を習っていた。誰よりも水が嫌いで顔を水の中につけるのが誰よりも遅かったという。父が私の水泳を見に来ていた記憶はないけれど、この頃は父親も育児に関心があったのだと思う。私はいつまで母と父が同居していたのか分からない。それは物心ついたときにはすでに母と父は一緒に住んでいなかったからだ。どうして一緒に住んでいないのと尋ねたことはあったけれど、明確な答えは得られなかった。どうして、とは思ったけれど、一緒に住んで欲しいとは言わなかった。一緒に住んだらこういうことができるようになるんじゃない?とは尋ねたことはあるけれど、母や父の中ではもう同居しないことは覆らない事実として存在していて、どちらかというと一緒に住むかどうかを考えているというより、私にどうその事実を受け入れさせようかを考えているような風に悩んでいるのだった。それを私も兄も分かっていたので、もう何も聞かなかった。友人の家に遊びにいったとき、家に父親がいるのが羨ましくて、でも私の家は何も問題が無いのになぜ私は父親が家にいてほしいと思っているのかよく分からなかった。単身赴任で父親がいないほうがなんとなく、わけのわからない別居を続けていられるよりましだと思うのだった。保育園の卒園式では多くの人間が涙を流しているのにもかかわらず、特に泣けなかった。全ての人間が同じ小学校にそのまま上がるというのに何に泣いているのかは理解できなかった。これはただの通過儀礼だと思いながら、私も泣いた方が良いのかもしれないとも思った。先生に会えなくなるという理由で泣いているのだとしたら、かなり保育園という場所が好きな人種なのだなと思いながら見ていた。小学校の入学式ではなぜかふてくされていて、入学式の写真は全て流し目になっている。小学校の時点で私は学習塾と水泳とピアノと英語を、兄は学習塾と水泳と空手をしていたのでなんとなく勉強ができた。地区ごとに下校する際、低学年はまだ地区名が覚えられないから、動物ごとに集まることになっていて、私はペンギンだったのを覚えている。小学1年生のとき、冗談でも男の子にからかわれるのがいやだったが、そのうちに慣れてしまった。ちょっかいをかけたいのよと祖母に言われ、最初は理解できなかったが、当時の私には謎の遊びなのだとしか捉えられなかった。小学2年の頃、廊下で大人数で鬼ごっこをしていたら担任に怒られてしまい、落ち込んだので私は怒られ慣れていないのだなとなんとなく思った。祖母にしか怒られたことがなく、祖母の怒り方は激情的で泣き叫ぶか、暴力を振るうか、物を投げるか、怒鳴り散らすかだったので、そのような怒り方をしない人間に単純に慣れていないのだった。ひどく嫌なことをした気持ちになった。幼少期は私でない人間が怒られているのを見るのでも息が苦しくなった。小学3年の頃、教師が大縄に熱心でクラスで大縄をすることが多かった。ある日の体育の授業で、大縄をやりたくなかったので仮病で気分が悪いと言って保健室に行き、傍観した。大縄をやらなくて済んだので喜んでいたのに、何故か嘔吐したので、ああ、人は精神的なもので嘔吐できるのだ、と思った。小学2年の頃に育てた野菜で食べた芋きんとんが美味しかったのを覚えている。小学3年の頃、虫を育てることになっていて、モンシロチョウの幼虫を育てた。誰のかごから移ったのか分からないけれど、クラスで寄生虫が大流行し、授業は虫の研究ではなく、寄生虫の研究となった。先生がありのままをスケッチしましょうと言うので私は幼虫から別の小さい幼虫が食い破って出てきている絵を描いて矢印を引き、何者?と書いた。コマユバチという寄生虫で、ただただ当時は気持ちが悪かった。幼虫の周りに繭が大量にくっついている様子は磔のようで見たくなかった。発生源が分からないので各々が虫かごを持って帰ることになった。私は触れなかったので、頼んで祖母に迎えに来てもらい、一緒に持って帰った。幼虫はとても可愛かったのに犠牲になっていくのを見るのが、精神的にとてもつらかった。田んぼでとったホウネンエビを学校に持って行ったこともあった。昔は今と比べてホウネンエビが多かったような気がする。田んぼにいる生物の中ではホウネンエビかカエルが最も好きだった。兄はおそらくゲンゴロウヒルという気がする。私はヒルが泳いでいるのを綺麗だと思いながら眺めていた。小学校のプールのときに水中にミズカマキリがいてそれを眺めていたのを覚えている。水道にゲジがいたことも覚えている。けれど、いちいち小学校でなんの生物を見かけたか20を超えても覚えている人間なんていない気がする。あ、書き忘れていたのだけれど、初恋は小学校1年生の頃である。2年生でクラスが離れてしまったけれど、目が合えば何故かお互いに会釈をするだけの関係で、会話は1年生だった頃に比べてほとんどなくなった。会話はないのに何故かどれほど離れていても、給食中食堂でお互い他クラスのテーブルでご飯を食べていても、目が合えば会釈するのだった。小学校の間好きになった男の子は4人くらいいた。どの時期に誰を好きになったかは忘れたけれど、初恋の男の子は安定していつも好きだった。小学校2年生で九九を覚えるのが誰よりも早かった。計算が誰よりも速く終わったので、いつもプリントを提出しに行った後、クラスを回っていろんな子に教えていた。塾の問題を解いているとき、何故か答えを写すこともあった。正解を出し、それを形に残すのが重要で、間違えたとき人に何か言われるのが億劫だった。父は100点じゃなければ、褒めないのを疑問視していたと私が高校2年生になった頃に語った。小学校4年生で合唱の練習をした。好きでもなければ嫌いでもなかった。賞はとってもとれなくてもどちらでも良かった。ピアノが別段上手いというわけでもなかったので、たまにピアノの伴奏をして、たまに歌った。小学校4年生のときの担任が私と同じ誕生日だった。美人で、声が低めで妖艶な声をしていたので好きだった。及川光博が好きだと言ったら、共感してもらえた。一輪車にはまったので、毎昼休み一輪車をしていた。同じメンバーで一輪車をするのが日課になっていたので、楽しかったかどうかは不明である。