20

高校生の頃、3時半くらいまで学校があり、そこから6時くらいまで部活をし、そこから10時くらいまで勉強するというのが習慣だった、そこから10時半に家に着き、ご飯を食べ、お風呂に入って、すぐに眠り、6時45分くらいに起きて、1時間半かけて高校に行き、その繰り返しだった。勉強は程良く出来た方だった。学年で20番以内に入っていれば妥当だった。兄は学年で10番以内に入っていたから、その中に入るのが夢だった。女の子で10番以内に入っているのはせいぜい1人か2人でそれは実質県内で1番勉強のできる女の子になることでもあった。当時私のアイデンティティは良い成績を収めることとなっており、兄にお前が俺に勝つことは無理だよと言い続けてきた、もちろんこれは兄自身の自己の確立のために放った言葉でもあった、ために無理だよと言われるとつい遂行するまで努力するくせがある。この目標は私が学校に行かなくなって無事達成されなくなるわけだが、両親はやれば出来る子というのをことあるごとに言いたがる。できなくてもあなたはあなただよ、ということは言わずに、今はできていないけどそれは本当のあなたじゃない、あなたはやれば出来るのだから、と言いたがるが、実は私の意欲の向上は後者からではなく、前者から図られるものだということを彼らは知らない。後者はむしろやる気の阻害を生むものでもある。つまらない雑談だった。1週間ほど前に夢を見た。起きたときに動悸が酷く、ああ、実際にそのようなことが起きたとき私はそのようになってしまうのだと実感できた夢でもあった。一人の同級生にもう一度会う夢で、学校で再会をする夢だった。私は自分の席に座ろうとするけれど、後ろにはその人がいて、どうしてその人がいるのか分からず、空いている別の席に何度も座ろうとするが、その人がどこまでもついてくるので、教室をとび出す。すると

廊下には運悪く誰もおらず、その人は静かに冷たい笑みで、会って欲しい人がいるの、と口にする。私は夢であるので、それが男の人で、私を強姦殺人する人であるのが感覚的に納得できていた、誰も居ない場所で彼女と一対一で話すというのは恐怖だった。私は死を恐れてはいないはずなのに、何に恐怖をしているのか分からなかった。私は電車で足を蹴られたときも、街で突然声をかけられるときもその人、もしくはその人が委託した何者かによる事案だと考えていた時期があり、遠くから来る他人が全員その人に見えて、近づいて一人一人顔が違うのを確認するまで安心できないということが昔あったのを思い出した。生憎、誰かに頼ることができるというのは嘘で、私はこのような自分自身により近い経験をしたとき、他人の介入によって状況が悪化することを恐れる。両親は忘れろとか怖くないというようなことをいうが、抑圧の代償はどのようなものかを知らずに言っていて、頼りにならない人、というのは私の中では無知か無責任のどちらかもしくはその両方の要素を内包していることが多い。一度だけカウンセラーにこの話をしたことがあったが、酷く重苦しい表情をしていて、私が逆に笑わなければいけないような強迫に追われた。仲の良い人に話をしたことがあった、その話もう8回目だよと言われたのに、何を話しているのか記憶がないので、本当に8回目なのかよく分からなかった。そのような人たちは良い意味でも悪い意味でも相づち以外の何者をも返さない。仲の良い人に至ってはおそらく聞いていないと思う。けれど、この前夢を見て、同時の私の恐怖はこれほどまでに強かったのだと思った。教師を名乗る資格のない人間が今だに存在しているけれど、忘れなければ、私はこの理不尽をどこにもぶつけることができない。つまらない話だった、少し疲れた

19

吹き抜けになっている建物が好きだ。思えば、小学校も中学校も高校も吹き抜けになっていて少なくとも3階以上から下を眺めるのが好きだった。買い物に付き合って行くときもショッピングモール内の1店舗を連れが見ている間に、店外の手すりにもたれて一階を歩く人々を眺めていることが多い。自分の顔はあまり好きではない。幼く見られることが多い。連れだって精神性まで年不相応に幼いと思われることもある。だから自分を尊重してくれる人間に酷く懐きやすい傾向にあるというのを自覚している。しかし、何かに深く傾倒しやすいというのは危険な傾向である。盲目になればなるほど判断力を欠きやすい。私は自分の好きなものを正確に知り、必要以上の速度で落ちていくというのを防がなくてはならない。生粋の理想主義者であると思う。また、完璧主義者でもあると思う。長年そのように生活してきて、具体的には述べないが生きづらく思うことがある。しかし、これはその要素を持つ人間が等しく皆生きづらさを覚えるというわけではなく、私個人にそのような傾向があるということが私にとって拮抗するような作用を生み出すということである。他人の内の苦悩は知れない。最近の自己に対する価値観の低下をどのように復帰させようかここ数日は考えている。この場合、私の中での理想主義者は、他人にあなたは価値があると言われることを望まない。むしろ、他人に価値があると思われることは大した問題ではなく、他でもない自分自身が自分自身にとって有用な存在になれているのかという問題である。他人に価値があるかどうかでいえば、家族にとって私は家族愛を受け渡す存在としての価値があるのだし、恋人にはエロスを共有するような価値があるのだし、友人には隣人愛を蔓延させるような価値があるのだと思う。私を無批判に認める存在がいるということがむしろ自分の中での認証の抑制力になっているかもしれない、あるいは今まで無意識に修正をその都度行ってきた自己価値観の高低がここ最近は為されていなかったか、、口に出すこと全てが些末なことのように感じ、自分の外見の全てが自己の内面に呼応していないように感じ、行動の全てが幼稚で無意味なことのように感じることがここ4日ほど続いているが、それとは正反対に自分が常に全能感に満ちているように感じることもある。しかし、私が唱えるようなあらゆることは他の人間によって既に考えられているし、この文章とて然りである。このような状態になるたびに私はその心持ちが少しでも回復するような行動を積み重ねていき、徐々にゼロに近づけていく。そのようにして酷く流動的な存在となり得ている。しばらく安定した自我だったが、不適応的になっているのだと思う。多くのペルソナを持っていて、人間によって口調も振る舞いも行動も変えているので、このような苦悩を抱きやすい気もするが、今回もできるだけ早い内にこの感覚が消えてくれることを願う。

18

空虚な気持ちに襲われた。高校生のあのとき死んでしまえばよかったと思った。希死念慮はなかった。眠かった。明日が来たところで意味が無かった。犬に会いたかった。私は弱いのに何もできない人間だった。私を憎んでいる人がたくさんいた。もう何でもないときに切れるようになった。血の味と匂いが好きだった。次の日お風呂に入ったとき、傷口が疼くように痛むのが好きだった。夢の中にいるような感覚が抜けなかった。祖父に会いたかった。実家にある祖父の仏壇がとても綺麗で、死んだら私もああいうのを買ってもらえるのだったら、幸せだと思った。空虚だった。時間が早く過ぎればいいと思った。目覚めても希死念慮が消えないのは懐かしい感覚で心地が良かった。薬を飲むと副作用で酷く倦怠感に襲われるので、嫌だった。それで医者が薬を変えずに作業的に出しているのを眺めていた。そうまでして生きる理由も分からなかった。思考に疲れていた。死ねばどうせ悲しむ人が出てくるのだから、それは今死んでも同じことだと思った。道端で運悪く交通事故に遭うのと何一つ変わらなかった。情けをかけられるのも嫌だった。寄り添われるのも嫌いだった。一人でひっそりと死にたかった。一度でも誰かに死ねばいいと思われたのだったら、それは死ぬ理由になる気がした。疲れた。死にたい気持ちが消えなかった。3日ほどずっと続いていた。死にたかった。行動に移すほどでもなかった。何かに疲れていた。何かは分からなかった。人生の中で私はいつが最も幸せだったのだろうと考えた。分からなかった。中学くらいのときかもしれなかった。友人と仲違いをした。生きる理由にもなる存在だった。ずっと、ずっといろいろな人が捨て台詞のように私に吐いた別れの言葉が生きていくごとに増えた。もっとこれから生きづらくなっていくのが明白だった。私も同じように罵詈雑言を吐いてきたのだった。影響を与える存在にも与えられる存在にもなりたくなかった。私には慕われるだけの価値はなかった。何かされるほどの価値はなかった。それで情けをかけられるのは酷く惨めな気持ちになるのだった。最近ずっと調子が悪かった。どうすればいいのか分からなかった。明るく振る舞うのが正解だった。私はよく分からなかった。少しずついろいろなことが重くのしかかっていった。私は救われてはいけない存在だった。

17

昨日の文章はここであげたつもりだったのに、もう一つのよくわからないところに飛んでしまっていたので公開されていなかったようだった。昨日の夜のような振戦が起こるのが怖くて今日はまだ栄養ドリンクを飲めずにいるし、吐き気がするくらいまで水分を摂取して、食欲もないのに食べ物を口に運んでいた。無気力に抗う術を心得てもいなかったが、希死念慮に襲われるよりはましだった。希死念慮に襲われると、自分が欠陥をもった人間であることを痛感するので、自らを消してしまいたくなるのだった。自転車を故障させた。出かけたい場所があったが、車輪が回るたびに街中に機械のぶつかる音が響くので、修理に出すことにした。空気がなく、振動がホイールに直に伝わってしまったために起こった不調らしかった。店主は私を自転車を虐待した飼い主のように非難めいた目で一瞥した。事実、私は生活のあらゆるものに対して虐待のようなものを行っていたので、むしろ気さくな対応をされるよりはそのほうが良かった。心臓につるされたロープをずっと重く引っ張られているような心地がした。夜を綺麗だと思えなかった。大学でなんとなく関わる人間のコピーが生活音を形成する、酷くくぐもったノイズが温い空気を動かしていた。恋人に電話を遅らせてもらったのに、出かけるようもなくなったのに、私は昨日からどこか不安に足先を浮かされているような心地で歩いていた。今は安定していた。安定したことに戸惑い、いつまでもケージを練り歩くラットのようだった。人生で一度はラットを飼ってみたいと思った。私は大学の科の中では一番ラットを好んでいるような気がした。ラットを気持ち悪がっている人間がいて、私にはどちらかというとラットのほうが人間よりは愛嬌のある見た目をしているように思われた。

16

恋愛に絆されやすい人間だった。小学校の頃していたのは恋愛かどうか定かでなかった。見た目がたまたま気に入っているにすぎなかった。中学のとき、初めて恋人ができた。恋人というより、恋という概念に近かった。別れるまでの落ち続ける砂時計をただ眺めているような恋愛をした。友だちでいてほしいという言葉を多用するようになった。人を振るときには必ず偽善のように友だちでいてほしいと加えた。その後友だちでいるかはどうでもよかった。むしろ、言葉を交わすのが億劫だった。告白さえしなければ、関係が崩れることもないのに、と思いながら話さなくなった人間を授業中外の景色を見るついでに視界に入れた。私を好きだという人間が家に帰って、私のことを考えているとしたらそれは不思議な感覚だった。私を介して恋愛という概念をその人間が考えていたのだということをぼんやりと想像しては空虚な気持ちになった。中学のとき、まったく話したこともないのに、なんとなく目で追ってしまう人間がいた。これは何だろうと一度、脳で考えてから、3か月ほどしてあれは一目ぼれだったかもしれないと思った。今から考えるとそれは螺旋階段の曲線に見惚れるようなものだった。恋愛を繰り返すたびに、以前の恋人よりも今の恋人を好きな具合のほうが高いと感覚的に感じるような人間だった。好きになった人間に好意を寄せている態度をとると、自然と関係が深まっていった。NPCに話しかけるたびに好感度が上がっていくようなものだった。人の負の感情がかなり苦手だった。他人であっても声を荒げられているのを見ると昔は動悸が止まらなかった。声を荒げたほうと荒げられたほうが、問題がどこかしらに帰着したように言葉を交わすのを見ても、私は動悸を止めることができなかった。何気ないことで心臓が壊れた。涙腺が壊れた。暗い音楽が好きだった。ふさいでいるときには顕著に暗い曲を聴きたいという意識が浮上したが、そうでなくても暗い曲は好きだった。明るい曲は嘘っぽくて嫌いだった。ピエロみたいな笑みを浮かべられているような気がして、薄気味悪かった。いくつかの恋愛を経て、恋人を唯一定義できるものは世界でただ一人、その人のために死ぬことができるという未来志向的かつ操作的な定義だった。自分のために死ぬことができるかはわからなかった。私は自殺したことがなかった。ただ、私は自分ひとりでいるよりも、恋愛に関する諸問題のほうで苦しみを抱えることが多かった。先に私の命を奪うものがあるとしたら、それは自己の中で完結しうる要因ではなく、他者から与えられる要因だろうと思った。過去の私は恋愛に疲れ切っていた。しかし、疲れ切るようなものはすでに恋愛ではないのかもしれなかった。今となってはどうだっていいことだった。今夜は原因のよくわからない振戦が起こり、空腹のためかもしれないと過食し、のどの渇きかもしれないと水を飲んだが、どうにも収まらないので、曲を聴いたり、こうして文章を書き殴ったりして、時の経過を待っているのだった。暗い曲を聴きたい気持ちが強かった。赦される、赦されないという言葉が頭の中を蠅みたいに飛び交って、居心地が悪かった。恋人に文章を褒められるのはわからないことだった。私の文章が美しく見えるとしたらそれは情景の問題だった。私は情景が眼前に浮かぶような感情に作用するような文章を心掛けているので、たまたまそういう文章に見えるのかもしれなかった。私は伝えたいあることがあったとして、それを美しい文章に変えるような能力はまったく持ち合わせていないのだった。たまたま書いて美しく出来上がったと自らが少なくとも判断したものを他人の目にさらしているのにすぎなかった。振戦の原因は様々なものが考えられた。ある一定の栄養が不足しているか、それともたまたま飲んだ栄養ドリンクが体に合っていなかったとか、最近煙草を吸っていなかったことによる離脱症状かそれとも、最近まったく食料を口にしなかったために慢性的に空腹になっているか、挙げればきりがなかった。わかったところで意味もないことだった。精神的には死にたいとは思わないが、今の身体状態が続くことを考えると、死んでも悪くないような気持になっていた。薬を大量に飲みすぎた次の日のような感覚がしていた。それともこの振戦の感覚自体、幻覚かもしれなかった。身体の内部に虫が這うような感覚だった。懐かしいような気もした。私はもともと自分が救われるために文章を書いていたような気がした。それが認められるまでいつも自分を引き擦り回して、のたうち回るような存在だった。時折心地よい痛みを見つけてはそれを美しさと表現するような愚かな人間だった。

15

風邪を引いている。喉が痛い。最近は寝て起きてご飯を食べ、曲を作り、ゲームをし、twitterをするという生活を繰り返している。なぜなら全体的に身体が酷くけだるいためである。私も悲観的な人間であるので、ベクトルは違えど、このような心身の不調の際には明日もきっとまた風邪なのだろうと思いながらよく眠る。精神に不調を来している際にはもう永遠に治らないような気さえする。この前年少時くらいまでを綴ったので、今日はその続きから書こうと思う。年少のとき富山県からある女の子が引っ越しをしてきて、私はその子と中学くらいまでずっと親しく付き合っていくことになる。幼少時には祖母からその子ばかりと遊んでいないで、もっといろんな子と仲良くしたらと言われたことがある。その子は家が一般的にはカルト宗教と呼ばれるところに属していた。その子の両親はそこで知り合って、その子を産んでいた。その子には自由恋愛が認められていなかった。私は恋愛に関して極力その子に考えさせてしまうようなことは言わないでおいた。中学までずっとその子と一緒にいたので宗教というのにあまり否定的な視点を持ち合わせていない。把握している限りではその子の家の事情を知っているのは中学までは私だけで、結婚相手が決まっているというのもその子は私以外の誰にも話すことなく過ごしていた。その子の父親は単身赴任で会ったことがないけれど、その子の母親は気さくでとても良い人であった。その子が楽しそうにしているので、両親のことを好きだと笑いながら話すので、私は宗教というのにあまり否定的な視点を持ち合わせていない。武道をしていて、バドミントンが得意で八重歯が可愛いかった。時折好きな人が重なり、二人で黄色い声をあげ、お互いの恋愛を応援し、ゲームをし、アニメの話をし、日常の話をした。小学校のときは私の方が背が小さかったのに、この前成人式で会ったら私の方が背が高かった。保育園の頃、父親が私を溺れさせたため、私は水泳を習っていた。誰よりも水が嫌いで顔を水の中につけるのが誰よりも遅かったという。父が私の水泳を見に来ていた記憶はないけれど、この頃は父親も育児に関心があったのだと思う。私はいつまで母と父が同居していたのか分からない。それは物心ついたときにはすでに母と父は一緒に住んでいなかったからだ。どうして一緒に住んでいないのと尋ねたことはあったけれど、明確な答えは得られなかった。どうして、とは思ったけれど、一緒に住んで欲しいとは言わなかった。一緒に住んだらこういうことができるようになるんじゃない?とは尋ねたことはあるけれど、母や父の中ではもう同居しないことは覆らない事実として存在していて、どちらかというと一緒に住むかどうかを考えているというより、私にどうその事実を受け入れさせようかを考えているような風に悩んでいるのだった。それを私も兄も分かっていたので、もう何も聞かなかった。友人の家に遊びにいったとき、家に父親がいるのが羨ましくて、でも私の家は何も問題が無いのになぜ私は父親が家にいてほしいと思っているのかよく分からなかった。単身赴任で父親がいないほうがなんとなく、わけのわからない別居を続けていられるよりましだと思うのだった。保育園の卒園式では多くの人間が涙を流しているのにもかかわらず、特に泣けなかった。全ての人間が同じ小学校にそのまま上がるというのに何に泣いているのかは理解できなかった。これはただの通過儀礼だと思いながら、私も泣いた方が良いのかもしれないとも思った。先生に会えなくなるという理由で泣いているのだとしたら、かなり保育園という場所が好きな人種なのだなと思いながら見ていた。小学校の入学式ではなぜかふてくされていて、入学式の写真は全て流し目になっている。小学校の時点で私は学習塾と水泳とピアノと英語を、兄は学習塾と水泳と空手をしていたのでなんとなく勉強ができた。地区ごとに下校する際、低学年はまだ地区名が覚えられないから、動物ごとに集まることになっていて、私はペンギンだったのを覚えている。小学1年生のとき、冗談でも男の子にからかわれるのがいやだったが、そのうちに慣れてしまった。ちょっかいをかけたいのよと祖母に言われ、最初は理解できなかったが、当時の私には謎の遊びなのだとしか捉えられなかった。小学2年の頃、廊下で大人数で鬼ごっこをしていたら担任に怒られてしまい、落ち込んだので私は怒られ慣れていないのだなとなんとなく思った。祖母にしか怒られたことがなく、祖母の怒り方は激情的で泣き叫ぶか、暴力を振るうか、物を投げるか、怒鳴り散らすかだったので、そのような怒り方をしない人間に単純に慣れていないのだった。ひどく嫌なことをした気持ちになった。幼少期は私でない人間が怒られているのを見るのでも息が苦しくなった。小学3年の頃、教師が大縄に熱心でクラスで大縄をすることが多かった。ある日の体育の授業で、大縄をやりたくなかったので仮病で気分が悪いと言って保健室に行き、傍観した。大縄をやらなくて済んだので喜んでいたのに、何故か嘔吐したので、ああ、人は精神的なもので嘔吐できるのだ、と思った。小学2年の頃に育てた野菜で食べた芋きんとんが美味しかったのを覚えている。小学3年の頃、虫を育てることになっていて、モンシロチョウの幼虫を育てた。誰のかごから移ったのか分からないけれど、クラスで寄生虫が大流行し、授業は虫の研究ではなく、寄生虫の研究となった。先生がありのままをスケッチしましょうと言うので私は幼虫から別の小さい幼虫が食い破って出てきている絵を描いて矢印を引き、何者?と書いた。コマユバチという寄生虫で、ただただ当時は気持ちが悪かった。幼虫の周りに繭が大量にくっついている様子は磔のようで見たくなかった。発生源が分からないので各々が虫かごを持って帰ることになった。私は触れなかったので、頼んで祖母に迎えに来てもらい、一緒に持って帰った。幼虫はとても可愛かったのに犠牲になっていくのを見るのが、精神的にとてもつらかった。田んぼでとったホウネンエビを学校に持って行ったこともあった。昔は今と比べてホウネンエビが多かったような気がする。田んぼにいる生物の中ではホウネンエビかカエルが最も好きだった。兄はおそらくゲンゴロウヒルという気がする。私はヒルが泳いでいるのを綺麗だと思いながら眺めていた。小学校のプールのときに水中にミズカマキリがいてそれを眺めていたのを覚えている。水道にゲジがいたことも覚えている。けれど、いちいち小学校でなんの生物を見かけたか20を超えても覚えている人間なんていない気がする。あ、書き忘れていたのだけれど、初恋は小学校1年生の頃である。2年生でクラスが離れてしまったけれど、目が合えば何故かお互いに会釈をするだけの関係で、会話は1年生だった頃に比べてほとんどなくなった。会話はないのに何故かどれほど離れていても、給食中食堂でお互い他クラスのテーブルでご飯を食べていても、目が合えば会釈するのだった。小学校の間好きになった男の子は4人くらいいた。どの時期に誰を好きになったかは忘れたけれど、初恋の男の子は安定していつも好きだった。小学校2年生で九九を覚えるのが誰よりも早かった。計算が誰よりも速く終わったので、いつもプリントを提出しに行った後、クラスを回っていろんな子に教えていた。塾の問題を解いているとき、何故か答えを写すこともあった。正解を出し、それを形に残すのが重要で、間違えたとき人に何か言われるのが億劫だった。父は100点じゃなければ、褒めないのを疑問視していたと私が高校2年生になった頃に語った。小学校4年生で合唱の練習をした。好きでもなければ嫌いでもなかった。賞はとってもとれなくてもどちらでも良かった。ピアノが別段上手いというわけでもなかったので、たまにピアノの伴奏をして、たまに歌った。小学校4年生のときの担任が私と同じ誕生日だった。美人で、声が低めで妖艶な声をしていたので好きだった。及川光博が好きだと言ったら、共感してもらえた。一輪車にはまったので、毎昼休み一輪車をしていた。同じメンバーで一輪車をするのが日課になっていたので、楽しかったかどうかは不明である。

14

起きているのが、幾分か楽になったので文章を綴ることにします。大学に入って人間関係が手狭になり、それが1つ1つの人間関係の響きやすさに影響していることは自覚があるのだけれど、一向に解決しないで生きています。煙草が美味しいので私は生きていると言っても過言ではない。昔から母と祖母には嘘をつきながら生きてきたのです。暇なので話の趣旨をまったく考えないで過去の話をつらつらと書いていくことにする。私の最も幼い頃の記憶は写真のように静止画もしくは5秒程度の映像で記憶されている。何故それが記憶に残っているのか分からないくらいに何でもない日々の記憶のように思う。1つは保育園で今ではあまり関係のない男の子とプラレールかなにかで遊んでいる脳内写真と、もう1つはベビーカーに乗っている私に近所づきあいのあった兄妹(この2人はのちのち小学時代ゲームに浸る仲間となる)が私をのぞき込んでいる脳内映像である。恐らく推定3歳前後。このブログの閲覧者の少なさともうそこの保育園では彼女たちは働いていないことを鑑みて語ると、保育園当時子どもながらに好きだと思っていた先生は上野先生と田口先生で恐らく彼女たちも私に対して比較的良く接してくれていたので、単純接触効果のようなもの、もしくは祖母がこれらの先生と仲良くしているのを脳が学習して、私も好意を抱いていたのだと思う。保育園は全員が全員最初から同時期に入園しているわけではなく、私は年少もしくはその1年ほど前から入園していた。またその事実を幼いながらに認知していたように思う。昼寝の時間に寝れもしないのに、じっとしているのが苦手でよくキーホルダーや自分で折った折り紙などを服の合間に隠し持って、布団の中で遊んでいた。それから、昼寝をするための布団は自分たちで敷くことになっており、その順番が男女交替で回ってくること、女子の日には仲の良い子と隣になれるようわいわいしていたことを思い出す。それから、祖母が保育園に迎えにくる際、私が今日おとなしく昼寝をしていたかどうかを先生が報告していたこと。保護者が迎えに来るまで広場のような場所で日本昔話を流していて、私はそれを最後まで見たかったが、迎えがやってきて、次々に園児が減っていき、私も最終的に呼ばれたことを記憶している。当時比較的幼い頃はアンパンマンNHKおかあさんといっしょを見ていた。私が率先して見ていたというより家族がそれをつけていたのである。鼻を触ると頭の形が変わるキノコをとても奇異な目で楽しく見物していた記憶がある。それから自分と同年代の子どもが歯磨きをしたり、パジャマを着たりするのを何が楽しくて見ていたか記憶にないが、脳内に残っているということは何かしらの楽しみが存在していたのだろうと思われる。語彙に関する質問を親にするのが好きで、本で覚えた単語などを親に質問するのが好きだったと思う。「あんざん(暗算)」ってなあにと運転中の祖母に聞いたら、どこで覚えてきたのとかなり肯定的に驚かれたため、あ、これは比較的難しい用語なのだなと思ったのも覚えている。ザリガニの絵を描いているときに、ザリガニは比較的大きいので大きく描こうと意識して画用紙の20分の19ほどをザリガニの胴体で埋めてしまい、やるせない気持ちになったこと、はみ出して手を描けば大きさを強調することが出来たのに枠内に収めようとして3cm程度の手足を付け加え、肝心のはさみが適当になってしまったこと。人物の絵を描いているときに前髪のみしか描いていなかったので、これ頭切れてるじゃんと祖母に言われ、こっちの方が可愛いのにと思ったこと。あめあめふれふれから始まる曲(題名は不明)とうーみはひろいーな(題名は不明)の曲は恐らく祖母が歌ってくれたので私は好きなのだと思う。後者の曲は幼い頃の私を沖縄に連れて行ったけれど私は覚えていないという文脈でよく歌われた。そのとき祖母は自身が何度も沖縄にいったときのこと(彼女はもう10回以上は訪れているのではないかと推察される)を楽しく語るので、なんとなく今現在海と聞くとどこにでも行けそう気がするのはそこから来ていると思う。この2つの童謡は上記の理由で現在の私も好んでいる。また、幽霊がかなり苦手で(現在も苦手である)、夏の時期になると家族が本当にあった怖い話を見始め、私には自分の部屋が一生涯なかったため、見ざるをえなかった。一人でも苦痛があるような番組を共有の場で流すとはなんたることかと私が家族に訴えると、これは作り話だからと笑って見続けるので、一度私が死ぬという幻覚を家族に見せてやりたい気持ちになった。夜道や暗い場所に恐怖を覚えていた。実家のトイレは現在と同じ場所にあったが靴を一度履き替えて暗い廊下を夜には通らなければならず、私は誰かについてきてもらうか、その廊下を全力ダッシュしていた。特に途中にある階段を登った先や、幽霊の出現しやすい濡れ場(リビングまでは洗面所とお風呂がある場)などは見たら終了だと思っていた。実家から100メートルほど先にある友人宅にはいつも自転車で行っていたため、夜道の恐怖は薄らいでいた。(もちろん荷台に幽霊が載っている可能性はあったが、この恐怖は比較的軽度なものだった)一度補助輪が片方だけ壊れたことがあり、夜道を歩かなくてはならなかったとき、私は恐怖で何度も後ろを振り返り、重たい自転車が自分のもとに倒れてきて擦り傷を何カ所も作ったため50メートルほど歩いたところで涙ぐんだのを覚えている。当時兄が考える遊びがかなり好きで、家中を探検して、透明なモンスターを倒したり、兄が考えた自作のカードゲームなどを二人でやっていた。ハンガーをハンドルに見立てて、兄と私がソファの背もたれ部分(座る場所ではなく、背もたれの方)に座って運転したりもした。一度兄が一人二役でカードゲームをしているので何してるのと聞いたら酷く真面目な顔でデッキを試していると言われてふうんと思った。私が年中の頃、いとこが生まれるという話になり、チラシの裏に名前の候補を100個ほど書き出して、叔父と叔母に献上した。最早それは名前ではなくひらがなの無秩序な組み合わせと化していたし、結果いとこの名前になったそれは私の候補にあったかどうか記憶にない。年中頃になると私は幅広くアニメを見始め、ガオレンジャーやコメットさん、セーラームーンデジモン、らんま二分の一、うる星やつらなどを見始めた。最も好きだったのはセーラームーンで当時の私は全てのキャラの技名とよく言う台詞などを覚えていたため、保育園でどのキャラをやるよう強制されても、全てを演じきることができた。当時の私はセーラーマーズとセーラーヴィーナスのキーホルダーを持っていた。祖母が旅行に出かけている際は私の面倒を見る人が誰もいなくなってしまうので、私はいつも旅先に連れられ、保育園を休むことが多かった。恐らく日本などは行ったことのない都道府県から数えていった方が断然早いくらいなのだが、そのほとんどを私は覚えていない。私があまりに多くの場所に行っているのを認知しているのは、テレビなどで私がここ行ってみたいと祖母に同意を求めるとほとんどの場所でそこ行ったことあるよ、覚えてないの?と言われるためである。旅先で祖母はいつも私をピンクのおんぶ用のひものような何かおんぶ心地が良い物を持参し、私は眠っていたので記憶がないのである。おおよそ私が元気に起きていたのはバスの中と思われる。そこで旅先で買ってもらったキティちゃんのメモ帳にいつも絵を描いて遊んでいた。そのときにメモ帳が好きで良く買うようになった。それから、キティちゃんに対して好意的なのは旅行時楽しかった記憶と結びついているからでもある。保育園のとき、前回りをしていてどうしても手を離す癖があり、いつも吹っ飛んでいた。友人はそれを冗談だと思い笑っていたが、私は本当に前回りができなかったので冗談ということにしておいた。時を経て、私は足抜き周りというのが出来るようになるのだが、現在はできない。当時は何故かスカートめくりが流行していたが、それに対しては特に何も思うことがなかったので、めくられたときはとりあえず何かしらのリアクションを返すことに決めた。幼い頃、原因は分からないが一度だけ入院したことを記憶している。そこで隣のベッドにいた男の子と仲良くなり、そのときにそよいでいたカーテンが光に当たって天国のようだったので、情景だけ記憶している。よく診てもらう小児科で左の壁ポケモンのポスターが貼ってあり、確かちょうどその頃デジモン派とポケモン派が良い感じに生まれてきていた。当時の私はポケットモンスター、略してポケモンか、という今ではおおよそ馬鹿と捉えられるような思考をし、納得に至った。ポケモンを知ったのはそのときである。スーパーではお菓子についてくるアクセサリーやおもちゃが好きだったので、よくドーナツラムネのようなものやジュエリーなんとかのようなものを買ってもらっていた。味単体ではイチゴ(3本、恐竜がモチーフだった気がしなくもない)やアンパンマン(こっちは一本)のキャラクターを模したチョコレートの棒や、紫色の(おそらくブドウ味)、オブラートがついたアンパンマンのグミなどを好んで買っていた記憶がある。ねるねるねるねは必ず二つ分買って兄と一緒に作った。コップに水をためてそれをつくると、いちいち水道まで行かなくてすむので楽なのである。一度旅行先で買った時計がついているイルカのキーホルダーを保育園の女の子に盗られてしまい、悲しかった記憶がある。今で言うと1000円もいかない商品だと思うけれど、単純に気に入っていたのと、同じ物を買ったんだよという言葉を言われたので、納得がいっていなかった。泥団子は藤の木の下に赤色の土をした(皆はこれを赤土と呼んだ)かなり素地のよいものがあったので、それで作った。山になっていて、その上に座り、かかとを使って土を削り、上から「さらこな」というごくごく一般的なその辺の砂を特別視し、上からかけた。祖母は話し好きで、迎えに来た数人の保護者と話が盛り上がることが多く、帰ろうよというと酷い剣幕で怒られるので、なぜか私はそれで愛されていないことを悟るほどの絶望感を味わっていた。また、彼女は長電話(1時間程度)をしている際も、私が声をかけると、酷く怖い顔をして、手で私にあっちに行けと合図するので、それも何故か恐怖だった。それを味わう頃にはもう私はその用件を祖母に伝えるほどのことではなかったと思い直し、祖母に何だった?とさっきとは打って変わった態度で尋ねられても、あまり話す気になれなかった。祖父は私をよくパチンコ屋さんに連れて行ってくれ、私はそこで可愛いねと言ってお菓子をもらえたので、とても良い思い出である。パチンコがよく当たるとお菓子やアンパンマンのおもちゃをもらえたので好きだった。祖父は顔が広く、一回お店に入るごとに3,4人の知り合いと遭遇していた。私が握るとよく当たるらしく(そんなわけがない)、私が回転した太陽みたいな形になっているレバーを握り、その上から祖父が握った。玉がたくさん落ちていくのが面白いなあと思って見ていた。落ちていたパチンコ玉は宝探しのように拾った。店内はうるさく、私が話しかけると祖父が腰をかがめて、なにね?(これは祖父の口癖である)とよく大きな声で言っていた。祖父は雀荘にもよく連れて行ってくれた。10人程度でいつも過疎っていたけれど、オーナーのおばちゃんが私をかなり可愛がってくれたため、雀荘という場所が私はかなり好きだ。祖父が麻雀をしている間、大人達が勝っても負けても笑っているのを見ている間、私は特に何をするでもなくただ青色の牌とオレンジ色の牌をひたすら入れ替えたり、ボタンを押して2つのサイコロが勝手に回るのを見ていた。卓の中に物を入れるとなんとなく壊れるということが分かっていたのでしなかった。雀荘の中はいつも煙草の煙が蔓延していて、だから私は煙草に対して、何の嫌悪感もなく、むしろ煙草を吸っている人たちのことが大好きなのである。