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起きているのが、幾分か楽になったので文章を綴ることにします。大学に入って人間関係が手狭になり、それが1つ1つの人間関係の響きやすさに影響していることは自覚があるのだけれど、一向に解決しないで生きています。煙草が美味しいので私は生きていると言っても過言ではない。昔から母と祖母には嘘をつきながら生きてきたのです。暇なので話の趣旨をまったく考えないで過去の話をつらつらと書いていくことにする。私の最も幼い頃の記憶は写真のように静止画もしくは5秒程度の映像で記憶されている。何故それが記憶に残っているのか分からないくらいに何でもない日々の記憶のように思う。1つは保育園で今ではあまり関係のない男の子とプラレールかなにかで遊んでいる脳内写真と、もう1つはベビーカーに乗っている私に近所づきあいのあった兄妹(この2人はのちのち小学時代ゲームに浸る仲間となる)が私をのぞき込んでいる脳内映像である。恐らく推定3歳前後。このブログの閲覧者の少なさともうそこの保育園では彼女たちは働いていないことを鑑みて語ると、保育園当時子どもながらに好きだと思っていた先生は上野先生と田口先生で恐らく彼女たちも私に対して比較的良く接してくれていたので、単純接触効果のようなもの、もしくは祖母がこれらの先生と仲良くしているのを脳が学習して、私も好意を抱いていたのだと思う。保育園は全員が全員最初から同時期に入園しているわけではなく、私は年少もしくはその1年ほど前から入園していた。またその事実を幼いながらに認知していたように思う。昼寝の時間に寝れもしないのに、じっとしているのが苦手でよくキーホルダーや自分で折った折り紙などを服の合間に隠し持って、布団の中で遊んでいた。それから、昼寝をするための布団は自分たちで敷くことになっており、その順番が男女交替で回ってくること、女子の日には仲の良い子と隣になれるようわいわいしていたことを思い出す。それから、祖母が保育園に迎えにくる際、私が今日おとなしく昼寝をしていたかどうかを先生が報告していたこと。保護者が迎えに来るまで広場のような場所で日本昔話を流していて、私はそれを最後まで見たかったが、迎えがやってきて、次々に園児が減っていき、私も最終的に呼ばれたことを記憶している。当時比較的幼い頃はアンパンマンNHKおかあさんといっしょを見ていた。私が率先して見ていたというより家族がそれをつけていたのである。鼻を触ると頭の形が変わるキノコをとても奇異な目で楽しく見物していた記憶がある。それから自分と同年代の子どもが歯磨きをしたり、パジャマを着たりするのを何が楽しくて見ていたか記憶にないが、脳内に残っているということは何かしらの楽しみが存在していたのだろうと思われる。語彙に関する質問を親にするのが好きで、本で覚えた単語などを親に質問するのが好きだったと思う。「あんざん(暗算)」ってなあにと運転中の祖母に聞いたら、どこで覚えてきたのとかなり肯定的に驚かれたため、あ、これは比較的難しい用語なのだなと思ったのも覚えている。ザリガニの絵を描いているときに、ザリガニは比較的大きいので大きく描こうと意識して画用紙の20分の19ほどをザリガニの胴体で埋めてしまい、やるせない気持ちになったこと、はみ出して手を描けば大きさを強調することが出来たのに枠内に収めようとして3cm程度の手足を付け加え、肝心のはさみが適当になってしまったこと。人物の絵を描いているときに前髪のみしか描いていなかったので、これ頭切れてるじゃんと祖母に言われ、こっちの方が可愛いのにと思ったこと。あめあめふれふれから始まる曲(題名は不明)とうーみはひろいーな(題名は不明)の曲は恐らく祖母が歌ってくれたので私は好きなのだと思う。後者の曲は幼い頃の私を沖縄に連れて行ったけれど私は覚えていないという文脈でよく歌われた。そのとき祖母は自身が何度も沖縄にいったときのこと(彼女はもう10回以上は訪れているのではないかと推察される)を楽しく語るので、なんとなく今現在海と聞くとどこにでも行けそう気がするのはそこから来ていると思う。この2つの童謡は上記の理由で現在の私も好んでいる。また、幽霊がかなり苦手で(現在も苦手である)、夏の時期になると家族が本当にあった怖い話を見始め、私には自分の部屋が一生涯なかったため、見ざるをえなかった。一人でも苦痛があるような番組を共有の場で流すとはなんたることかと私が家族に訴えると、これは作り話だからと笑って見続けるので、一度私が死ぬという幻覚を家族に見せてやりたい気持ちになった。夜道や暗い場所に恐怖を覚えていた。実家のトイレは現在と同じ場所にあったが靴を一度履き替えて暗い廊下を夜には通らなければならず、私は誰かについてきてもらうか、その廊下を全力ダッシュしていた。特に途中にある階段を登った先や、幽霊の出現しやすい濡れ場(リビングまでは洗面所とお風呂がある場)などは見たら終了だと思っていた。実家から100メートルほど先にある友人宅にはいつも自転車で行っていたため、夜道の恐怖は薄らいでいた。(もちろん荷台に幽霊が載っている可能性はあったが、この恐怖は比較的軽度なものだった)一度補助輪が片方だけ壊れたことがあり、夜道を歩かなくてはならなかったとき、私は恐怖で何度も後ろを振り返り、重たい自転車が自分のもとに倒れてきて擦り傷を何カ所も作ったため50メートルほど歩いたところで涙ぐんだのを覚えている。当時兄が考える遊びがかなり好きで、家中を探検して、透明なモンスターを倒したり、兄が考えた自作のカードゲームなどを二人でやっていた。ハンガーをハンドルに見立てて、兄と私がソファの背もたれ部分(座る場所ではなく、背もたれの方)に座って運転したりもした。一度兄が一人二役でカードゲームをしているので何してるのと聞いたら酷く真面目な顔でデッキを試していると言われてふうんと思った。私が年中の頃、いとこが生まれるという話になり、チラシの裏に名前の候補を100個ほど書き出して、叔父と叔母に献上した。最早それは名前ではなくひらがなの無秩序な組み合わせと化していたし、結果いとこの名前になったそれは私の候補にあったかどうか記憶にない。年中頃になると私は幅広くアニメを見始め、ガオレンジャーやコメットさん、セーラームーンデジモン、らんま二分の一、うる星やつらなどを見始めた。最も好きだったのはセーラームーンで当時の私は全てのキャラの技名とよく言う台詞などを覚えていたため、保育園でどのキャラをやるよう強制されても、全てを演じきることができた。当時の私はセーラーマーズとセーラーヴィーナスのキーホルダーを持っていた。祖母が旅行に出かけている際は私の面倒を見る人が誰もいなくなってしまうので、私はいつも旅先に連れられ、保育園を休むことが多かった。恐らく日本などは行ったことのない都道府県から数えていった方が断然早いくらいなのだが、そのほとんどを私は覚えていない。私があまりに多くの場所に行っているのを認知しているのは、テレビなどで私がここ行ってみたいと祖母に同意を求めるとほとんどの場所でそこ行ったことあるよ、覚えてないの?と言われるためである。旅先で祖母はいつも私をピンクのおんぶ用のひものような何かおんぶ心地が良い物を持参し、私は眠っていたので記憶がないのである。おおよそ私が元気に起きていたのはバスの中と思われる。そこで旅先で買ってもらったキティちゃんのメモ帳にいつも絵を描いて遊んでいた。そのときにメモ帳が好きで良く買うようになった。それから、キティちゃんに対して好意的なのは旅行時楽しかった記憶と結びついているからでもある。保育園のとき、前回りをしていてどうしても手を離す癖があり、いつも吹っ飛んでいた。友人はそれを冗談だと思い笑っていたが、私は本当に前回りができなかったので冗談ということにしておいた。時を経て、私は足抜き周りというのが出来るようになるのだが、現在はできない。当時は何故かスカートめくりが流行していたが、それに対しては特に何も思うことがなかったので、めくられたときはとりあえず何かしらのリアクションを返すことに決めた。幼い頃、原因は分からないが一度だけ入院したことを記憶している。そこで隣のベッドにいた男の子と仲良くなり、そのときにそよいでいたカーテンが光に当たって天国のようだったので、情景だけ記憶している。よく診てもらう小児科で左の壁ポケモンのポスターが貼ってあり、確かちょうどその頃デジモン派とポケモン派が良い感じに生まれてきていた。当時の私はポケットモンスター、略してポケモンか、という今ではおおよそ馬鹿と捉えられるような思考をし、納得に至った。ポケモンを知ったのはそのときである。スーパーではお菓子についてくるアクセサリーやおもちゃが好きだったので、よくドーナツラムネのようなものやジュエリーなんとかのようなものを買ってもらっていた。味単体ではイチゴ(3本、恐竜がモチーフだった気がしなくもない)やアンパンマン(こっちは一本)のキャラクターを模したチョコレートの棒や、紫色の(おそらくブドウ味)、オブラートがついたアンパンマンのグミなどを好んで買っていた記憶がある。ねるねるねるねは必ず二つ分買って兄と一緒に作った。コップに水をためてそれをつくると、いちいち水道まで行かなくてすむので楽なのである。一度旅行先で買った時計がついているイルカのキーホルダーを保育園の女の子に盗られてしまい、悲しかった記憶がある。今で言うと1000円もいかない商品だと思うけれど、単純に気に入っていたのと、同じ物を買ったんだよという言葉を言われたので、納得がいっていなかった。泥団子は藤の木の下に赤色の土をした(皆はこれを赤土と呼んだ)かなり素地のよいものがあったので、それで作った。山になっていて、その上に座り、かかとを使って土を削り、上から「さらこな」というごくごく一般的なその辺の砂を特別視し、上からかけた。祖母は話し好きで、迎えに来た数人の保護者と話が盛り上がることが多く、帰ろうよというと酷い剣幕で怒られるので、なぜか私はそれで愛されていないことを悟るほどの絶望感を味わっていた。また、彼女は長電話(1時間程度)をしている際も、私が声をかけると、酷く怖い顔をして、手で私にあっちに行けと合図するので、それも何故か恐怖だった。それを味わう頃にはもう私はその用件を祖母に伝えるほどのことではなかったと思い直し、祖母に何だった?とさっきとは打って変わった態度で尋ねられても、あまり話す気になれなかった。祖父は私をよくパチンコ屋さんに連れて行ってくれ、私はそこで可愛いねと言ってお菓子をもらえたので、とても良い思い出である。パチンコがよく当たるとお菓子やアンパンマンのおもちゃをもらえたので好きだった。祖父は顔が広く、一回お店に入るごとに3,4人の知り合いと遭遇していた。私が握るとよく当たるらしく(そんなわけがない)、私が回転した太陽みたいな形になっているレバーを握り、その上から祖父が握った。玉がたくさん落ちていくのが面白いなあと思って見ていた。落ちていたパチンコ玉は宝探しのように拾った。店内はうるさく、私が話しかけると祖父が腰をかがめて、なにね?(これは祖父の口癖である)とよく大きな声で言っていた。祖父は雀荘にもよく連れて行ってくれた。10人程度でいつも過疎っていたけれど、オーナーのおばちゃんが私をかなり可愛がってくれたため、雀荘という場所が私はかなり好きだ。祖父が麻雀をしている間、大人達が勝っても負けても笑っているのを見ている間、私は特に何をするでもなくただ青色の牌とオレンジ色の牌をひたすら入れ替えたり、ボタンを押して2つのサイコロが勝手に回るのを見ていた。卓の中に物を入れるとなんとなく壊れるということが分かっていたのでしなかった。雀荘の中はいつも煙草の煙が蔓延していて、だから私は煙草に対して、何の嫌悪感もなく、むしろ煙草を吸っている人たちのことが大好きなのである。