19

吹き抜けになっている建物が好きだ。思えば、小学校も中学校も高校も吹き抜けになっていて少なくとも3階以上から下を眺めるのが好きだった。買い物に付き合って行くときもショッピングモール内の1店舗を連れが見ている間に、店外の手すりにもたれて一階を歩く人々を眺めていることが多い。自分の顔はあまり好きではない。幼く見られることが多い。連れだって精神性まで年不相応に幼いと思われることもある。だから自分を尊重してくれる人間に酷く懐きやすい傾向にあるというのを自覚している。しかし、何かに深く傾倒しやすいというのは危険な傾向である。盲目になればなるほど判断力を欠きやすい。私は自分の好きなものを正確に知り、必要以上の速度で落ちていくというのを防がなくてはならない。生粋の理想主義者であると思う。また、完璧主義者でもあると思う。長年そのように生活してきて、具体的には述べないが生きづらく思うことがある。しかし、これはその要素を持つ人間が等しく皆生きづらさを覚えるというわけではなく、私個人にそのような傾向があるということが私にとって拮抗するような作用を生み出すということである。他人の内の苦悩は知れない。最近の自己に対する価値観の低下をどのように復帰させようかここ数日は考えている。この場合、私の中での理想主義者は、他人にあなたは価値があると言われることを望まない。むしろ、他人に価値があると思われることは大した問題ではなく、他でもない自分自身が自分自身にとって有用な存在になれているのかという問題である。他人に価値があるかどうかでいえば、家族にとって私は家族愛を受け渡す存在としての価値があるのだし、恋人にはエロスを共有するような価値があるのだし、友人には隣人愛を蔓延させるような価値があるのだと思う。私を無批判に認める存在がいるということがむしろ自分の中での認証の抑制力になっているかもしれない、あるいは今まで無意識に修正をその都度行ってきた自己価値観の高低がここ最近は為されていなかったか、、口に出すこと全てが些末なことのように感じ、自分の外見の全てが自己の内面に呼応していないように感じ、行動の全てが幼稚で無意味なことのように感じることがここ4日ほど続いているが、それとは正反対に自分が常に全能感に満ちているように感じることもある。しかし、私が唱えるようなあらゆることは他の人間によって既に考えられているし、この文章とて然りである。このような状態になるたびに私はその心持ちが少しでも回復するような行動を積み重ねていき、徐々にゼロに近づけていく。そのようにして酷く流動的な存在となり得ている。しばらく安定した自我だったが、不適応的になっているのだと思う。多くのペルソナを持っていて、人間によって口調も振る舞いも行動も変えているので、このような苦悩を抱きやすい気もするが、今回もできるだけ早い内にこの感覚が消えてくれることを願う。