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酷くイラついている。人と話したくない。半径1メートル以内の世界と恋人以外いらない。心の中に浮かんだ言葉が荒く、一度書き換えないといけないくらいにはイラついている。本当に気分屋なので困ってしまう。頭痛のせいか、山積みのレポートのせいか、明るい音楽を無理矢理聞かされたせいか、随分前から一向に直らない大学のプリンターのせいか(今日私はこれで電車の学割とyoutubeプレミアムの学生証明のための在学証明書を印刷したかったのだ)何かの契約の訪問にうっかり出てしまい長々と話を聞いていたせいか(平常ではかなり面白がって聞けるはずなのだが)何故か苛立っている。Shitという感じではない、嗚呼、厭世という感じだ(謎の伝わらない例え)。梅雨という簡単な言い訳は転がってはいるが、5月になればそれは5月病、冬になれば冬季によく顕在化しやすい抑うつの典型だと言われるだけの話だ、春になれば新しい環境になれていないのだといったことだ。基本的に人間性が終わっている人間というのはこの世に数多く存在していて、私は神ではないのでそれに対して絶対的良悪の判断を下すことはできない、どうにも私は自分にとって利益か不利益かといった基準から逃れることはできない。しかし主観的な視点なしにそもそも良悪という基準が生まれたるのだろうか、善悪とは人間がいなければそもそも定義できない。しかし人間が存在すれば主観も亦同時に存在し、主観という物を定義できるからこそ、そこからの対立概念である絶対的善悪もまた定義できるのだと言われればそうなのかもしれない(自分でも何を言っているか分からず、またただ苛立った。)意味のないもののような気がする。何も存在せず、もしくは何も認識することが出来ないから、苛立っているのだろう。意図的に要因を消しているのか、認識できないほど些細な要因なのかは分からないが、あ、睡眠不足というのもあるかもしれない。先ほど眠っていたら唐突になんとか勧誘に起こされたのだ。そして私の寝起きはひどく悪い。おそらく表出しないにしても一日の中で最も苛立っている時間は寝起きだ。(もちろん、恋人は例外である。大好き~~という感じだ。)

 

文章がまとまらない。私は何に対して苛立っているのだろう。分からない。平常何かに苛立っている人間のことを酷く冷めた目で見てしまうのだが、それは苛立った態度を表出させ、まったく無関係な人間に当たり散らしている姿で、苛立っている状態というのは人間の感情としては正常なような気がする。あらゆる負の感情を抱くことを(自他ともに)制限するほど狭隘な心を持ち合わせた人間ではないはずだよ、私。

 

今日一日中、どうすれば恋人に執着できるのか考えていて、分からなかった。そもそも私に執着がないのは執着があるからこそ執着をなくそうという力が働いていて無いように見えるのか、もとから執着を抱きにくいのか、恋人が執着を抱かせないような人間かとかその辺の分岐から始めなくてはいけない訳で、かなりぐるぐるしなくてはならない。そもそも原因を考えることなく対症療法的に解決するのならば、私は今すぐ恋人にどこにも行かないで(可愛く)と言った方が良いくらいである。しかし何事も思考を要するのには私の中でできる限りその人に向かって真摯に向き合いたい(あまり好きではない言葉だが致し方ない)という思いの表れで、やはり私は恋人のことを思考せざるを得ない。たまに何も考えられなくさせてほしくなるといった具合だ。(もちろんそれはセックスによって満たされているのかもしれない。)

 

私という人間は他人がそうであるだろうという予測の上でしか判断できないことだが、他人よりは思考がおそらく好きな人間なのだと思う。酷く精神の状態が悪いときには思考スピードが上がり、3倍くらいになって頭の中の声が五月蠅く、それを消すために自殺したくなるくらいだ。最も単純に状態として思考スピードが上がっているだけではなく、多大な思考量を要するほどの要因が存在していることも多分に関係している。そういった私が恋人に対して恋人以外の何も考えさせられなくしてほしいと願うのはけっこうな愛の証明になるのではないかと考えていたが、(ああ、苛立ちが大分軽減されてきた、よかった、多分明るい音楽のせいだな、これ)何の話だっけ、そういった私が恋人に対して恋人以外の何も考えさせられなくしてほしいと願うのはけっこうな愛の証明になるのではないかと考えていたが、思考を止めるような存在であるなら、私がたまに飲む精神科の薬などもその働きを大いに持っている。(もちろん私は恋人のことを機能的に好きなのではない、またやってしまった)しかし、あれは副作用が酷くて、恋人が副作用がないから好きなのかと問われればもう何もかもが違う、また振り出しに戻る。恋人が過去に言った自分だけの特別性がほしいといったニュアンスの言葉はけっこう愛していることの証明としては有用ではないかと思うので以後考えているのだが、生憎恋人を恋人として存在させているような様々な要素で説明しようものなら、恋人は自己に対する評価が何故か(×100000、ああ何故なのだろう)低いのでそういった説明のアプローチは上手くいかない。しかし、恋人に抱く独占欲から説明しようとすれば、私は自らの抱く独占欲が恋人の幸福の邪魔をするのならば(恋人がそれを否定したとしても、もっと俯瞰的に見て邪魔になると判断される場合には)消すこともできるほど柔軟な概念なので酷く脆く上手く説明することができない。ああ、少し疲れてきました。2200字全く途切れることなくキーボードをかたかたしている。恋人に対する特別性を時間、つまりは恋人と一緒に居る時間私は何よりも恋人を優先しているのだと説くことは、大学に行っている間の恋人の不在を説明できないから不可能で、恋人に対する特別性を文字通り特別性として捉え、恋人として選んでいるのだから現に特別なのだと状態から帰納的に定義することは、あらゆる可能性を考えてしまって(本当はより相応しい恋人がいるのではないかと恋人は考える)上手くいかない。昨日はその少し先の私に相応しいと思う恋人というのを彼なりに考えてもらった上で、それは君だというか、そんな人間はいないというかどちらかに帰着させようと思っていたのだが、失敗に終わった。というより、記憶にない。おそらくだめだったのだろう。まあ、だんだんとこのとりとめも無い文章をつらつらと読んでいけるほど物好きな人間に向けた配信を続けていくのも疲れてきたので、この辺で切り上げようと思う。いつもこの鳴り止まない思考を止めるためにはコツがあるのだ。ここまである程度疲弊した後で、結論がでないのにここまで一日中恋人のことを考えていられるのはやはり彼のことを愛しているのだという帰着点である。しかし、それにも思考量という同じベクトルで測ることのできる概念が存在してしまい、最も思考時間を費やしているということは必然的に他とそれを比べていることになってしまうのだ(比較級だからね)。たまに酷く投げやりになって、もういっそのこと名前が好きだとか君の外見が好きだ(いや外見は好きだが、外見に対しても恋人は何故か自己評価が高くはなく、私自身外見だけ好きなのではないから複雑性を帯びる)とか言った方が良いのではという気にもなる。それは恋人が恋人でない限りあり得ない要素だからだ。しかし内面的に規定したいというか彼の何故か×10000000低い自己評価と私が愛していることの差異をどうしても証明したくて、それを証明することはおそらく彼を幸福にさせることのような気がして懲りもせず考えてしまう。そしてそのような思考の余地を与えてくれる点でも恋人を好きだし、私はこういった反証を重ねていくより、態度で好きと言った方が良いのではとも思うが、離れているのでそれはできない。離れていても恋人に不安を抱かせないようにしたい。愛しているという言葉を君にしか使わないようにしたところで恋人は安心してくれるだろうか。それは抱擁と同じ効果を持つのだろうか。3300字も思考をこのように言語化する暇があるくらいなら、4000字程度の短編小説を書いた方が恋人を幸福にできたくらいだ(恋人に小説を与えて幸福にしたい、向上心のないものは馬鹿だ)。わーーーからない。やめた。愛しているよ、君のことを。